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■ミステリの歴史■


1.ポーにいたる道

(2)ゴシック小説の系譜

——ストロベリー・ヒル・フォーエヴァー


 ジュリアン・シモンズは『ブラッディ・マーダー』の中で、ポーについてこう言っている。

彼が生涯追いつづけたのは芸術の女神——その真の名は“センセーション”にほかならなかったのだ。(p58)

 ポーの作品には、知性で謎を解く物語=パズル的な物語と、センセーショナル(扇情的)な物語が同時に存在している。ポーにおけるセンセーショナルな要素は、ゴシック小説(注1)からの流れとしてとらえることができる。

 ゴシック小説とは、1764年に発表されたホレス・ウォルポール(1717-1797)の『オトラント城奇譚』からはじまる小説スタイルで、18世紀末から19世紀初頭にかけて主にイギリスで流行した。代表的な作品としては、以下のようなものが挙げられる。

 イギリスにおけるゴシックの流行は、マチューリンの『放浪者メルモス』で一段落したというが、ここまで小説作品だけで百数十編、それ以外にもゴシックの影響をうけた戯曲や詩が多数ある。

 もともと「ゴシック」とは、ノートルダムの大聖堂やランス大聖堂などに代表される12世紀初頭から14世紀に流行した建築スタイルである。これを18世紀になって、「暗黒の中世」への回顧的ロマンティシズムから「趣味」として取り入れたのがホレス・ウォルポールで、彼は1747年にストロベリー・ヒルに「ゴシック趣味」を取り入れた邸宅を建設し、客たちに見せびらかしていた。いわば、中世建築の廃墟への賛美であり、暗くおどろおどろしいが、一方でロマンティシズムをかきたてるイメージが、当時の貴族たちの一部ではやったのである

 こうした趣味志向の背景には、当時、自国が文化の片田舎だったイギリスの上流階級人が、子弟に教養をつけさせるためにローマなどの文化の中心地に留学させた、いわゆるグランド・ツアー(ヨーロッパ大陸修学旅行)があるという。グランド・ツアーのアルプス越えで、イギリスにはなかった荒々しい風景へ恐ろしいが崇高な感動を覚えた若者たちは、やがてサルヴァトール・ローザ(1615-1673) やピラネージ(1712-1778)、フィリップ・ラウザーバーグ(1740-1812) などの絵画スタイルを好むようになる。その絵画スタイルはピクチャレスクと呼ばれ、調和的な美ではなく荒々しさの美、形や色や光や音の不規則性の美しさを主題とした。このようなイギリス人の嗜好が「ゴシック趣味」につながっていく。

 前回にふれたヴォルテールなどに代表される啓蒙思想が広まっていく18世紀に、一方でこういう回顧的・退廃的な趣味が流行するというのは、光あれば必ず闇があるという、わかりやすいといえばわかりやすい状況なのかもしれない。そう考えると、18世紀からの啓蒙思想=理性の勝利とゴシック趣味=情緒の勝利の二つの要素を、ポーが合体させて探偵小説に結実させたという見方も可能だろう。

 紀田順一郎は『出口なき迷宮』(1975) に所収の「ゴシック・ロマンスとは何か」で、古典的ゴシック小説の定型を次のようにまとめている。

  1. 城への"招待"
  2. 予言、凶兆または危機
  3. デモンの顕現
  4. 出口なき迷路
  5. 城の崩壊

 貴族の趣味としてはじまったゴシック小説を一般に普及させたのがアン・ラドクリフ夫人(1764-1823)である。彼女は『ユドルフォーの秘密』で、遠くで聞こえる足音、ギイと軋む扉、出所の不明な苦悶の声、不思議な音楽のしらべなどのサスペンス要素を盛り込んだ。しかし、ラドクリフ夫人はもうひとつの要素を自作に導入した。それは「一見超自然的恐怖に満たされていながら、結末で、これを全て人工的なトリックとして解き明かしてしまう形式」(荒俣宏/『出口なき迷宮』)である。もちろん、それはまだ「探偵小説」と呼べるようなものではなく「そのミステリーの解決の仕方は、推理小説とちがっていて、推理小説では適当な場所で説明すべきことも、かの女は最後まで説明せずにいたり、その説明があまりにお粗末なので、読者がだまされたと感ずるようなこともある」(A・E・マーチ『推理小説の歴史』)ようなものだった。

 A・E・マーチは、ラドクリフ夫人に影響を与えた作品として、ドイツ古典主義文学の巨匠フリードリヒ・シラー(1759-1805)の『招霊妖術師』 Der Geisterseher (1789)を挙げている。

 この作品のなかのプリンスは、ある不思議な出来事を、超自然の出来事と考えず、あらゆる方面から可能と思われるその理由を検討してみた結果、ついにそれが巧妙な手品師の仕事であることを知るのだが、この作で面白いのは、その検討する際、それを二人の人物が話し合っていることで、一人は利口で物事をちょっと見ただけでその理論を知り、他の一人は頭の働きがにぶいので、なんでも説明してもらわないと分からない。ラドクリフ夫人はこの手法をシラーから学んで、(中略)わけても「イタリヤ人」ではそれがもっとも効果的で、かの女の説明は二人の人物の会話で話されるのだが、一人は何でも見て知っており、一人は読者とおなじように何も知らず、しきりに好奇心からいろんな質問を連発する。(A・E・マーチ『推理小説の歴史』)

 これは、言うまでもなく、ポーの「デュパンとその友人」、ドイルの「ホームズとワトスン」の原型である。こうした点からも、「かの女の多くの恐怖小説は、今日わたしたちが見るような推理小説の型を作るに、たいへん功労があったといっていいのである。」(A・E・マーチ『推理小説の歴史』)

 このように、ゴシック小説は、亡霊のいる古城、地下窟、墓地、土牢、殺人、強姦、妖魔の棲む森、などなどの舞台装置で、たっぷりと扇情的な効果を読者にあたえてくれる。怪奇幻想がつきものとされ、事実、そういう作品が多いのであるが、それだけではないようだ。由良君美は「伝奇と狂気」(《季刊芸術》1969年秋号/『椿説泰西浪曼派文学談義』所収)の中で、ゴシック・ロマンスを「恐怖派伝奇小説」という言い方で、次のように説明する。

いったい、今日の推理小説の祖型のひとつは、ここに述べてきた恐怖派伝奇小説なのであって、今日の推理小説に〈社会派〉と〈ロマネスク派〉とが分けられるとすれば、その分裂はすでに、この頃の祖型のなかに胚胎していたといってよい。〈社会派〉の求める恐怖は、時代や社会のなかに潜む〈からくり〉の怖ろしさであり、〈ロマネスク派〉の与える恐怖は、〈伝奇〉に傾斜した想像力の空間のなかで綺想がえぐりだす人間性の深層の恐怖の図であるといえよう。いずれも、想像力の奔放な高翔が伴わなければならないが、〈社会派〉の場合は、巧妙に隠された社会悪を透徹した知性の推理で解剖してゆく面白さを狙うのであるが、〈ロマネスク派〉は、そのような事件の絵解きよりも、むしろ、非現実の空想の空間に無限連想のあやかしの糸を織りなしながら、事件の連鎖の積み重ねのうちに、一抹の推理味をかもしだすものといってよかろう。

 恐怖派伝奇小説は、概して〈ロマネスク派〉に傾くものが多かったが、それでも、〈社会派〉の水脈は強く貫き通っており、とりわけ『ケイレブ・ウィリアムズ』はその代表作といったらよいであろう。(中略)〈社会派〉も〈ロマネスク派〉も、ともに恐怖派伝奇小説であって、一方の社会とリアリズム、他方の歴史と想像力という基調の差はあるにしても、なお、推理のための推理に堕する当今の推理小説の一部のものとはことなって、いずれかに基調はもちながらも、なお双方の世界に相渉る健康な面をどちらももっていた(後略)

 そして、『ケイレブ・ウィリアムズ』について、「鋭い推理をもつ逃亡者の眼差し。美徳のかげの醜悪の暴露。綿密な構成。そしてなによりも、イギリス小説には珍しい、ウィットの欠如。これらの特徴からいって、このイギリス恐怖小説社会派の鼻祖は、わが松本清張に、時として、あまりにも似ている。」と指摘する。なるほど、松本清張も「社会の理不尽な恐怖を描いた作家」という見方をすれば、ゴシック・ロマンスの末裔ととらえることも出来るわけだ。(注2)

 たしかに『ケイレブ・ウィリアムズ』を読むと、そこには恐怖はあっても、怪奇はない。作者のウィリアム・ゴドウィン(1756-1836)(注3)は急進的社会思想家であり、この作品を書いたのは民衆に社会矛盾を知らしめるためであった。主人公にふりかかる恐怖は現実的な犯罪や社会体制の歪み、そして人間心理の複雑さからきている。社会の闇と心の闇をあつかっているわけで、その闇のひとつは、主人公ケイレブがおさえることのできない好奇心である。この好奇心から「探偵行為」、つまり使用人であるケイレブが自分がつかえる主人フォークランド氏の秘密をさぐりはじめ、ついには彼が殺人犯だとつきとめてしまうのである。真犯人が誰かにかかわらず、主人の秘密をさぐる、という行為そのものがイギリス人にとっては嫌悪以外のなにものでもないようで、このため親しかった人々に石もて追われ、さらにフォークランドの策略もあって、罪なき身を牢獄に捕らわれてしまう。こうしてケイレブの流浪がはじまり、脱獄、盗賊団への加入、変装しての旅が続く。やっと心優しい一家でやすらぎの日々を得たと思っても、すぐに過去の罪をあばかれ、またも流浪することになる。

 この作品でケイレブを執拗に追いかけるのが、フォークランドに頼まれたジャインズという男である。この男について、作者は次のように説明している

ジャインズはこの数年間、法律を犯すこと、法律の執行の手先として働くこと、このふたつの職業の間を行ったり来りしていた。もともとは前者の仕事をしていたのだが、盗賊商売の秘訣を知ると、今度は盗賊を捕える方の専門家、つまり探偵になった。なりたくてそうなったのではなく、ならざるを得なかったのである。(中略)探偵業という立派な仲間ではできることなら同業者の摘発を避けるというのが決まりである。(中略)悪事を働いていた頃の共犯者をギリギリまで保護し、よほどのことがない限り手をつけないことである。(p195/岡照男訳/国書刊行会)

 当時はまだディテクティヴという言葉はない。したがってジャインズは刑事(ディテクティヴ)ではなく、賞金目当てに盗賊をつかまえる「賊捕り屋」という存在だったようだ。盗賊をしつつ探偵もするジャインズは、フランスのヴィドックを思い起こさせるが、実際、このような人物は当時のイギリスでもめずらしくはなかったのだろう。つまり、この時代にあっては、泥棒と探偵は同類であり、「探偵行為」は恥ずべきことだったのである。「探偵」が正義の味方になり、「探偵行為」が大衆の支持を得るためには、まだ半世紀が必要だった。

 『ケイレブ・ウィリアムズ』が探偵小説の生成史に欠かせないもう一つの理由がある。それは、ゴドウィンがこの作品を書く上で採用した方法で、彼はまず最終巻を最初に構想し、それを読者に納得させるために第二巻を考え、さらに第二巻を効果的にするために第一巻を執筆した、と述べている。つまり、結末から発想して効果的な全体の構成を行なったわけで、これは探偵小説の構成方法と同じである。ポーがエッセイ「構成の原理」(「創作の哲学」)で述べたのは、このゴドウィンの方法を流用したものであった。ゴドウィンは、はじめに結末から考えて筋立てをつくるというテクニックを「最初につかった人であるばかりか、このテクニクの必要な理由を、最初にのべた人であった。」(『推理小説の歴史』)

 ゴシック小説は、現代の貸本屋にあたる〈巡廻文庫〉が車に乗せて貸して廻っていたようで、大きな屋敷の令嬢や小間使いが、ヘンリー・フィールディングやリチャードソンと区別しないで読んでいたという。娯楽の少ないなか、ラドクリフ夫人らの新作小説を待ちわびる当時の読者たちの気持ちは、たいへんなものであっただろう。最もゴシック小説が流行したのは18世紀末から19世紀初頭だが、そのころに書かれたジェーン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』(1818/執筆は1798頃)には、ゴシック・ロマンスに夢中になる良家の子女が皮肉な筆致で描かれているという。

 しかし、1820年以降、イギリスではゴシック小説は廃れ、その流れはドイツやアメリカに移っていった。とくにアメリカでは「アメリカ小説の父」と呼ばれるC・B・ブラウンがゴドウィンに影響を受けて小説家になろうと決心し、『ウィーランド』(1798)や『エドガー・ハントリー』(1799)(注4)などのゴシック小説を上梓したほどで、ポーやホーソーン、シャーロット・パーキンス・ギルマン、ハーマン・メルヴィル、さらにはウィリアム・フォークナーなど、ゴシックが文学のメインストリームと重なっていく。

 一方、イギリスではジェーン・オースティンなどの家庭小説が中心的存在となる。しかし、例えばエミリ・ブロンテの『嵐が丘』(1847) 、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』(1847)、ディケンズの『大いなる遺産』(1861)に登場するミス・ハヴィシャムなどにはゴシックの香りが濃厚にただよっている。『ケイレヴ・ウィリアムズ』は1830年代のニューゲイト・ノヴェルに影響をあたえ、アン・ラドクリフ型のゴシック小説は前述の『ジェーン・エア』やデュ・モーリアの『レベッカ』(1938)を経て、HIBK派(もし知ってさえいたら派)や「ゴシック・サスペンス」(古い館をうら若き美女が訪れ、怪奇現象を含むさまざまな苦難を乗り越えて、館を手に入れる物語)の流れにつながっていく。19世紀後半のセンセーション・ノヴェルにもゴシックの影響は大きい。また、怪奇的要素は、ドイルの「まだらの紐」「ぶな屋敷」『バスカヴィル家の犬』などにも取り入れられ、カントリーハウスものやディクスン・カーを経て、その支流は日本の「新本格」の一部にまで流れ込んでいる。

 ところで、ウィリアム・ゴドウィンは『ケイレブ・ウィリアムズ』の執筆に際して、『ニューゲイト・カレンダー』から多く題材をとったと述べている。『ニューゲイト・カレンダー』とは、ニューゲイト監獄に収監された囚人たちの行状やら処刑の模様などをまとめた実録読み物である。

 そう、センセーショナルな物語には、ゴシック・ロマンスのほかに、もうひとつ別な流れがあった。それは犯罪実話の流れである。


(注1) 「ゴシック・ロマン」という言い方は間違いらしい。ロマンは小説のこと、ロマンスは伝奇小説のこと。だから、ただしくは、ゴシック・ロマンス。しかし、ここではゴシック・ノヴェルの訳語として「ゴシック小説」を用いた。 (本文に戻る)

(注2) 最近では巽昌章が『論理の蜘蛛の巣の中で』のあとがきで、「清張は、探偵小説の非現実的なセンセーショナリズムを批判して、探偵小説をお化け屋敷の掛小屋から連れ出そうといったが、清張作品にあらわれた日本の姿は、それ自体、狂気、異様な偶然、歪んだ欲望、甦る過去の因縁といったパーツが近代的な合理主義志向と融合してできた、巨大な白昼のお化け屋敷めいている。」という興味深い指摘をしている。 (本文に戻る)

(注3) ゴドウィンと女権論者メアリ・ウォルストンクラフトの間に生まれた娘が、『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーである。つまり、父娘二代にわたってゴシック小説を書いたわけだ。 (本文に戻る)

(注4) A・E・マーチの『推理小説の歴史』では、『ウィーランド』、『オーモンド』(1799)、『アーサー・マーヴィン』(1799)、『エドガー・ハントリー』の一部に、それぞれ推理小説的な要素が含まれると指摘している。また、推理小説の歴史を考える場合、C・B・ブラウンを忘れてはならない理由として「ラドクリフ夫人やウィリアム・ゴドウィンの特色——すなわち面白い謎、好奇心から出発した犯罪捜査、スリルに富む逃亡と追跡、結末における明快な論理的解決——そんなものをブラウンは一つにまとめて、それに自分の工夫を加えた最初の作家だったからである。」と述べている。 (本文に戻る)


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