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2.E・A・ポーと探偵小説の誕生(承前)

——犯罪小説から探偵小説へ


 探偵小説はポーの「モルグ街の殺人」によって始まる。

 これ以前にも犯罪を、あるいは恐怖を題材にした多くの文学作品が書かれていた。「モルグ街の殺人」は、それらとは何が違ったのだろうか。

 まず、ポーは「謎解き」という主題に特化して作品を作り上げた。これまでも謎解きの要素が含まれる作品はなかったわけではない。しかし、それは『ザディック』やジェイムズ・フェニモア・クーパーの作品(森に残された痕跡から獲物を追跡する)などに見られるように、登場人物の性格や知的能力を示すために、作品の一部として使われていたにすぎない。「謎解き」そのものが主題ではなかった。

 ポーの文学論「創作の哲学」(「構成の原理」)は、文学作品は結末(=主題)を見すえて、作品のあらゆる要素が結末に向かって効果的に配置・構成されなくてはならない、とする。この結末から全体を構成する方法のオリジナリティは、ゴシック小説の回に触れたウィリアム・ゴドウィンにある。ポーの理論はゴドウィンの受け売りだった。

 このような、ひとつの主題に向けて作品全体が無駄なく構成されることが創作の理想とするならば、さまざまな要素が渾然一体となって成立するような長篇ではなく、短篇こそがもっとも優れた小説の形式だとするのは当然と言えるだろう。ポーはこう述べる。

どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するようになると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである。(「構成の原理」篠田一士訳)

 ではなぜ、ポーはそのような単一の効果を求めるような作品を理想としたのか。それはポーが小説家・詩人であると同時に、批評家・雑誌編集者でもあったからである。

 かつてポーは幻想と怪奇の異端作家、狂気の天才とされ、「ポーは探偵小説を発明することによって狂気を免れようとしたのだ」(ジョセフ・ウッド・クルーチ)というような説がまことしやかに語られていた。もちろん、奇矯な性格だったポーに、そういった一面がなかったとは言えない。しかし、近年の論文では、マガジニストの面からポーの作品を読み解こうとするものが多い。

 ポウは何よりもマガジニスト(雑誌文学第一主義者)であった。絶妙なる創作者(詩人・小説家)としての才能とともに、ポウは卓越したジャーナリスト(批評家・編集者)としての能力にも恵まれていた。読者の喜ぶものを熟知して雑誌のために書く——そのような彼の資質が、ちょうど十九世紀前半の雑誌文学勃興にぴったりフィットしたのである。(中略)

 では、マガジニズムとはいったい何か。それは文学創作上におけるひとつの論理転倒を指す。ポウは必ずしも純朴に作品を書き、ひしめく雑誌群へ投稿したのではない。まったく逆に、当時すでにマガジニズムの求める傾向というのが厳然として潜在しており、雑誌へ投稿するということはそれ以前にマガジニズムの約束事に従うことが条件だった。(中略)作家が作品を書くというよりも、雑誌が作家に書かせたというべきか。(巽孝之『E・A・ポウを読む』p5-6)

 では、ポーが登場したころのアメリカの文芸状況はどのようなものだったのだろうか。野口啓子、山口ヨシ子編『ポーと雑誌文学——マガジニストのアメリカ』(2001)の序章「ポーと雑誌文学」(野口啓子)によると、

(1830年代から1840年代)当時のアメリカは、家庭を中心とする農業社会から、科学的発明や機械技術の発達に支えられた、工場生産を主体とする産業資本主義社会へと移行しつつあった。いわゆる産業革命の時代である。(中略)

 ポーが短編作家として活躍する1830年代および40年代は、いわゆる「雑誌の黄金時代」である。1825年から50年までの四半世紀の間に、雑誌の数は六倍にはねあがり、50年には四、五千種類の雑誌が出版されたという。一年に平均百冊ほどであった本の出版と比べると、その隆盛ぶりが容易にうかがわれるだろう。その背景には(一)流通システムの向上、(二)印刷技術の発達、(三)人口増加、(四)教育の普及による識字率の上昇などがあった。

 (中略)輸送手段の発達によって、雑誌はより多くの地域に、より速く、より安く送られることになった。また、形態面でも内容面でも手軽な雑誌は、徐々に増加しつつあった鉄道旅行者たちの娯楽として、いっそう需要が増したのである。(中略)

 (この時期に)アメリカの人口は約三倍に増え、ニューヨークなどの都市部では八倍にのぼった。(中略)

 読者層の驚異的な拡大は、その当然の帰結として、出版を一つの産業にした。つまり、文学が利潤を生みだす「商品」になったのである。1820年代頃のアメリカ作家は、限られた読者を相手に作品を書き、本を出す際には、アーヴィングやクーパーのような人気作家ですら、自費出版という形を採らざるを得なかった。その後の読者層の拡大が、文筆のみで生計を立てる「作家」という職業を可能にしたのである。

 ポーは「モルグ街の殺人」を《グレアムズ・マガジン》に発表したとき、同誌の編集責任者だった。《グレアムズ・マガジン》は挿絵を入れて女性読者にもアピールするように作られたアメリカ最初の雑誌(『娯楽としての殺人』の注記)といわれている。ポーが編集にかかわってから、発行部数が5000部から2万5千部(4万部としたものもある)へと飛躍的にのびたとされているが、この数字はどうやら、自分の理想とする雑誌への出資者をつのるため、彼自身が装飾した可能性が高いらしい。数字はいくぶん眉唾としても、同誌を人気雑誌にしたことは確かで、ポーが読者獲得に企画したものに、読者から募集した暗号の解読や批評・書評の重視などがある。これは読者との知的対決や、読者に文学作品の解読法を示すことなどが、読者にうける、とポーが考えていたことを示している。

 もうひとつ、ポーが読者獲得に欠かせないと考えていたものがある。言うまでもなく、センセーショナルな題材である。ポーが最初に編集の仕事についた《メッセンジャー》誌で、所有者のトマス・ホワイトは読者を怒らせることを恐れ、素朴で道徳的な内容を求めたが、これに対しポーは「読者が求めているのはセンセーショナルな題材である」と反論している。(『ポーと雑誌文学』第一章)

 これら読者が求めている(とポーが考えた)もの、すなわちセンセーショナルな題材、テクストの解読、読者との知的対決が可能に見せかけた演出。こうした要素を集めて、探偵小説は誕生した。巽孝之は『E・A・ポウを読む』の中で、以下のように断言する。

 ポウが作品を書いたのは、まさにジャンルを読むことによってであった。このとき、書き手というのはある種の読み手であり、読み手というのはある種の書き手である。この論理の典型的な例が、前述の推理小説ジャンルにみられる。というのは、彼が創った推理小説ジャンルこそは「読むことに関するアレゴリー」を端的に実践しているものと考えられるからだ。すなわち、わたしたちは推理小説を読めば読むほど、むしろ作者エドガー・アラン・ポウ自身がいかに当時の「大衆小説」の諸ジャンルを読み親しんでいたか、そのことについてアレゴリカルに教えられるためである。

 さらに巽は、ポーの「探偵小説」的な作品のなかでもっともセンセーショナルなものとされる「黄金虫」についても、この作品が雑誌のコンテスト応募作だったことから、こう語る。

 賞金稼ぎのために宝探しの物語を語ること。逆にいえば、ポウが財宝を得る話を書くことで、自ら財力を得ようとしたこと。たしかに、「黄金虫」ではデュパンに代わって探偵役を勤めるルグランは、海賊の埋蔵金を獲得するのにどうすればいちばん早いか、その手管を考慮するのであるが、まったく同時に、作家でありマガジニストであるポウは、100ドルの懸賞金を獲得するのにどうすればいちばん早いかその手段を画策している。具体的には、ルグランが暗号を解読することで財宝のありかをつきとめたのに対し、同時にポウのほうは〈ダラー・ニューズペーパー〉という雑誌を読み込むことで、この雑誌が彼に100ドルをもたらすであろうジャンルの準拠枠をつきとめたのである。雑誌が求めるジャンル的約束事こそポウの小説創作を典型的に操作していたこと——ここには、ポウがいかにジャンルを読み、作品を書いたか、そのあたりの事情が典型的に表れている。ポウの推理小説の中で「読むこと」が「書くこと」の一変型として前景化していると先に述べたのは、その意味だ。推理小説をポウの野心的(「野心的」に傍点)発明とする観点はいっさい切り捨てられなければならない。推理小説は、そのようにあからじめ創造しようと「目論まれたもの」ではなく、むしろポウがジャンルを読みつつ作品を書いていったプロセスの上での「偶然の副産物」だったと見るほうが正鵠を射ている。それは、独立したサブジャンルというよりもポウ自身の「ジャンルを読む行為」を最も端的に表現するケース・ステディにすぎない。(p9-12)

 そこでは、これまで事件の渦中にいて異常な事件の当事者となっていた主人公が、事件(=物語)の外に位置し、事件(=物語)を読み解くことになる。

 「モルグ街」はある意味でゴシック小説の設定と酷似している。(中略)

 推理小説がゴシック小説と袂を分かつのは、その異常な事件もしくは暴力の被害者が主人公から第三者へ移行していることである。これによりデュパンは精神的自由を獲得し、知的ゲームを楽しむかのように事件の謎を解いてみせる(中略)

作家ポーは、まず犯罪(=物語)を創造し、それを分解(=分析)してみせる。(中略)プロットを創造するのは物語作家ポーであり、それを分析するのは批評家ポーである。つまり、推理小説とは「二人のポー」による物語と批評の融合であるといえよう。(『ポーと雑誌文学』第一章「大衆と芸術の狭間」野口啓子)

 ボワロー=ナルスジャックは『推理小説論』のなかで、このような小説を書こうしたきっかけは、ポーが『バーナビイ・ラッジ』を読んだことにある、と指摘している。「モルグ街」の発表と同じ年の1月から連載がはじまったディケンズのこの小説の最初の数回を読んで、ポーが作者のたくらみ、すなわち事件の真相を見抜いてしまったことは、つとに知られている。この時、ポーはこのテクストを読み解く過程をテーマにして作品を作り上げようと思いついた。そうして出来上がったのが「モルグ街」だ、というのである。

 マガジニストとして、大衆にうける物語を考える、そうした「ジャンルを読む行為」から出来上がったのは、「テクストを読み解く行為」を主題にしたジャンルであった。こうして「探偵小説」というジャンルは発生した。(注1)


 ここまでの流れを、図に示しておく。

ポーまでの流れ

(注1)もちろん、この時点で「探偵小説」はまだジャンルではない。それがジャンルに発展していく過程をこれからたどることになる (この注はあとから追加)(本文に戻る)


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