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■ミステリの歴史■


3.イギリス 1850年代〜1860年

(2)ディケンズの探偵小説


 もともとチャールズ・ディケンズには推理や分析に対する興味があった、そもそも処女作の『ボズのスケッチ』(1833-34)にしてから、古着を詳しく調べて、元の持ち主の体格・職業・生活習慣を推理するエピソードがあるではないか、とA・E・マーチは指摘する。初期の作品である『オリバー・トウィスト』でも、「オリヴァーの身元を調べるブラウンロー氏の行動の描写など完全な推理小説で、ブラウンロー氏は調査がすむまで、自分の行動を絶対に秘密にし、最後に(中略)手掛りを説明し、証人を呼び、証拠を示しながら、複雑ないきさつを話して、立派な探偵ぶりをみせる」(『推理小説の歴史』)のである。また、この作品にはほんの脇役ではあるが、ボウ・ストリート・ラナーズも登場する。

 さらに1841年、つまりポーが「モルグ街の殺人」を発表したのと同年の1月から連載がはじまった『バーナビー・ラッジ』は、犯罪事件の謎と解決が小説の重要なプロットを占める作品だった。この小説で殺人犯が容疑を逃れるために使うトリックを、ディケンズは読者に隠して物語をすすめる。小説の中でそれが明かされる前に、連載の数回分を読んだだけでポーが真相を見抜いた有名な逸話は、すでに紹介した。

 ディケンズがある程度重要な役割をする職業的探偵を登場させたのは『マーティン・チャズルウィット』(1843-1844連載)が最初だった。この物語で殺人事件を捜査するのは、生命保険会社に雇われるナジェットという男である。全体の約半分くらいのところで登場したとき、彼はこう紹介される。

 その男はサッとはいってき、はいってから会議室のドアを閉めたが、その用心深さときたら、まるで人殺しでもたくらもうとしているようなようすだった。  彼は週一ポンドでやとわれ、調査を行なう男だった。彼がアングロ・ベンガル会社の仕事を人知れず、じつにヒソヒソとやっているのは、ナジェットの美徳、あるいは、才能といったものではなかった。生まれながら秘密(シークレット)になるようにできている男だったからである。背の低い、乾あがった、しなびた老人で、その血までジクジクと分泌している(シークリート)ような感じだった。(中略)どんな暮しをしているのか、それは秘密だった。どこに暮らしているのか、それは秘密だった。彼が何者かさえ、秘密だった。彼のかびくさい紙入れの中には、相矛盾した名刺があり、その一部で石炭商人と称し、ほかものもではぶどう酒商人、さらに委託売買人、集金人、会計士といった具合い、自分自身ほんとうにその秘密がわかっていないみたいだった。(北川悌二訳/ちくま文庫p267-268)

つねに秘密めいて、他人の行状を監視し、自分の心を開かない男として描かれている。ずいぶんとあやしげな雰囲気で、イーアン・ウーズビーによれば、「刑事部がその威力を発揮して一般大衆の支持を得るようになる前、大衆が刑事や探偵をどう見ていたか」(『天の猟犬』p110)の証左だという。

 しかし、ディケンズが1850年に雑誌《ハウスホールド・ワーズ(家庭の言葉)》に発表した記事「刑事のパーティ」「刑事警察の逸話三篇」には、実在の刑事たちから聞いた捜査苦労話を読物としてまとめたもので、ここでの刑事たちは、首都の犯罪を取り締まる市民のヒーローとして描かれている。こうした背景には、首都警察として創設されたロンドン警視庁の刑事たちの社会的地位の向上も影響しているだろうが、自分自身の「地位が向上して上品な階級に入ってしまったことを不満に思う」(『天の猟犬』p118)ディケンズが、刑事たちの活躍に見られる「低俗な冒険小説みたいな雰囲気がたまらなく好きだった」(同前)ことも影響しているという。

 たしかに「刑事のパーティ」や「刑事警察の逸話三篇」を読むと、刑事たちの犯罪捜査がわくわくするような筆致で描かれている。手がかりを追う捜査がまったくの偶然から意外な展開をしたり、酒場での大乱戦に巻き込まれたり、ソファの中に隠れて(人間椅子!)悪人を見張ったり、まさに都会の暗部に繰り広げられる、犯罪を巡る「冒険」である。

 このような刑事に対する好意的な関心が、『荒涼館』(1852-1853連載)のバケット警部に結実する。ナジェットと違い、バケット警部は「『家庭の言葉』の記事に出てくる警官同様、中流の下の階層の品のよさをそっくり身につけて」(『天の猟犬』p130)いる。親しみやすい性格で、さまざまな階層の人間とうすぐに打ち解けることができるのは、捜査のためでもあるだろうが、聡明な妻を持ち、子供好きだという家庭的な面ももっている。しかし、初登場の場面で、誰も気がつかないうちに部屋の中にいたことでもわかるように、謎めいたところもある。職務とあらば友人でも逮捕する。全体として「有能な職業人」といったイメージで描かれている。

 バケット警部は最初は弁護士タンキングホーンの依頼で働き、のちにはタンキングホーン殺害事件の調査を行なう。途中で間違った人物を逮捕するものの、実はそれは真犯人を安心させる芝居であり、最後には真犯人を明らかにする。

タンキングホーン殺人事件を書くにあたり、ディケンズは現代の推理小説のような手法をつかっている。鍵となる事実を隠し、故意に読者を惑わせたり、混乱させたりする。(中略)犯行そのものははっきりとは書かず、わざと疑いがデドロック夫人にかかるようにしむける。また、バケットの捜査のほんとうの狙いがどこに向けられているかも、(中略/真犯人が逮捕されるまで)読者にはわからない。(中略)その結果、探偵小説につきものの、何かが起こりそうだというサスペンスの雰囲気が盛り上がるだけでなく、バケットにたいする読者の認識が変わり、警部自身も物語により深くかかわる人物になった。こうして読者ははじめて、安心感を与えてくれる、信頼できる第三者のナレーターという導き手なしに、『荒涼館』の混沌とした世界を内側から経験することになる。(中略)それまで第三者のナレーターを信頼したように、こんどはバケットを信頼し、物語を運ぶ手法の変化で一時的に混乱させられた視界はふたたびすっきりした明晰なものになる。(『天の猟犬』p141)

 ディケンズが『荒涼館』で最初に導入し、のちの探偵小説の定番となったものがある。それは、探偵役が最後に関係者を集めて行なう謎解きである。

劇が最高潮に達する直前、バケット警部が得意げに舞台の正面に進み出て、説明する場面があることで、この警部の説明に耳を傾ける人々のなかに、真犯人が含まれているのである。(『推理小説の歴史』)

 こうして小説の世界に、魅力的な警察官の探偵が登場した。ジュリアン・シモンズはバケット警部が「後世になっても犯罪捜査に携わる警察官のモデルとなったのである。」と述べているが、しかしイーアン・ウーズビーは、そうではないという。

たしかに当時の二流作家の中にはディケンズの真似が過ぎると思われる者もいたが、その後の小説にぞくぞくと登場した刑事がバケット警部にほとんど瓜二つで、おたがい同士もよく似ていたのは、なにもディケンズの影響だけではない。この小説の登場人物のひとつの型は、『家庭の言葉』の記事や『荒涼館』が出版される以前から、すでに未熟な形ではあったが現れはじめていて、ディケンズはそれを定着させるのに大きな貢献をしたにどとまる。(中略)だから、影響力があったことはたしかだが、バケット警部はその後の小説に登場した刑事たちの「元祖」というわけではけっしてない。彼は広く一般に受け入れられていた人物像の中の、もっとも忘れがたい、知性をそなえた存在なのである。(『天の猟犬』p151)

 さて、『荒涼館』の想をねっていた1851年にディケンズと知り合ったのが、彼よりも12歳年下のウィルキー・コリンズ(1824-1889)である。センセーション・ノヴェルの作家のうち、もっとも中心的な存在はウィルキー・コリンズといってもいいだろう。というより、彼の『白衣の女』(1860)の人気の故に、それに追従する作品が次々と現れ、センセーション・ノヴェルという名称が出来たらしい。

 コリンズは1852年ごろからディケンズの主催する雑誌《ハウスホールド・ワーズ》に「ミステリー、サスペンス、推理の要素の濃い短編小説を次々と発表し」(『夢の女・恐怖のベッド他六篇』解説)、のちには同誌の編集副主幹となった。A・E・マーチの『推理小説の歴史』には、この頃のコリンズに影響を与えた作家として、ヴィドックとバルザックとポーの名があげられている。「恐怖のベッド」(1852)は「陥穽と振り子」からの影響がうかがえるし、「盗まれた手紙」A Stolen Letter(1854)はポーの「盗まれた手紙」The Purloined Letter と同様に、恐喝の材料となっている手紙を悪党から取り返す話である。シモンズは「剽窃の謗りを免れない」(『ブラッディ・マーダー』p71)というが、手紙の隠し場所はポーとは違うアイディアを出している。『世界短編傑作集1』ほか、多くのアンソロジーに録られている「人を呪わば」(1859/短篇集収録の年)は、コミカルな作品に仕上がっている。また、未訳だが「アン・ロドウェイの日記」(1856)は、題名にもあるヒロインが友人の仇を討つために犯人探しを行なう話で、アン・ロドウェイは「英国小説に登場した最初の女性素人探偵」(『法と淑女』解説)とされる。

 『白衣の女』は、《ハウスホールド・ワーズ》に続いてディケンズが出した雑誌《オール・ザ・イヤー・ラウンド》に、ディケンズの『二都物語』終了直後の1859年から1860年にかけて連載された。連載が終わって三巻本として出版されると、「英国では初版が発売の日に売り切れ、ニューヨークのある出版社は、その一社だけで十二万六千部を売るという物凄い人気であった」(「コリンズを巡って」)。サッカレーやアルバート公、フィッツジェラルドらが賞賛を惜しまず、「白衣の女」と名づけられた衣服、婦人帽、香水などが売られ、同じ名のワルツやカドリールが踊られたという。

 『白衣の女』は「コリンズ犯罪小説のうち最高の興趣に富んだ傑作」(『ブラッディ・マーダー』)ではある。さまざまな謎めいた出来事が起き、悪辣な姦計が語られ、プロットは意外性に満ちている。とくに小鼠をペットにする魅力的な悪役フォスコ伯爵と、美しさの点では見劣りするものの、不断の精神力で姦計を阻止すべく活躍するマリアン・ハルコム嬢の、互いの能力を認め合いつつ繰り広げられる戦いには、「名探偵対怪人」の原型を見ることも出来よう。しかし、この作品には明確に提示される事件の謎はなく、その意味では探偵小説というより犯罪をめぐるスリラーに近いだろう。コリンズの探偵小説への貢献は、『月長石』(1868)までまたなくてはならない。


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■今回の主な参考資料


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