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十九世紀フランス大衆小説は新聞連載小説(ロマン・フィユトン roman feuillton)としてはじまった。フランスの探偵小説も、その枠のなかで生成し発展することになる。
小倉孝誠の『「パリの秘密」の社会史』によれば、
新聞に書き下ろし小説の連載するという営みは、十九世紀前半、七月王政期のフランスで誕生した。(中略)これは出版産業が資本主義的な生産と消費の形態のなかに組み込まれたことを示す文学の一形式である。 |
十九世紀前半にフランスの活字メディアはこれまでにない発展をする。それは産業革命による印刷物の大量生産、鉄道による広範囲の流通機能の整備、そして教育の普及による読者の増大による。1850年代には鉄道旅行のための「鉄道文庫」まで登場した。これは同じような鉄道客ねらいのイギリスの「イエローバック」登場とほぼ同時期である。
七月王政期(1830-1848)には活字メディアの発展と文学の大衆化をうながす条件がそろう。王政復古期(1815-1830)に「新聞・出版にたいして行われた監視体制が(七月王政期には)緩和したことも、それに拍車をかけた。そうした情況を見抜き、そこに商業的な成功のチャンスを嗅ぎつけたのがエミール・ド・ジラルダン(1806-81)である。」(『「パリの秘密」の社会史』p34-35)ジラルダンが1836年に創刊した日刊新聞『プレス』は、フランスのジャーナリズムに革命をもたらした。当時の新聞は年間予約によるものだったが、『プレス』紙はその年間購読料をそれまでの半額の四十フランにし、また当時の新聞の主流である硬派な政治的な内容を避け、娯楽的傾向を強めた紙面にした。これは見事にあたって、「数ヶ月で一万人の予約購読者を確保、1840年代にはその数が二万人を超え」(前出)るほどだった。
『プレス』によって創始され、文学の世界に決定的な衝撃をもたらしたのが新聞小説の連載である。その最初の新聞小説『老嬢』を寄稿したのは、ほかならぬはバルザック。連載小説の成功がただちに新聞の発行部数を左右するようになるのは1840年代に入ってからで、その新聞も競って人気作家の寄稿を求めるようになった。(『「パリの秘密」の社会史』p35-36) |
安価な大衆新聞の広告が文学を商業化させ、連載小説が文学の質を低下させる、という警鐘(批評家サント=ブーヴが1839年発表した論考)があったものの、
拡大する読者層の存在は、ペンで生活する作家たちが読者大衆の夢想や欲望を考慮するよう余儀なくさせた。彼らは卑俗な打算のみからそうするように振る舞ったのではなく、変化する文学市場の要請に冷淡をよそおうことができなかったのである。新聞に寄稿したのはいわゆる大衆作家だけではなく、今日では七月王政期を代表するとされる作家たち(ユゴー、ラマルチーユ、バルザック、ジョルジュ・サンドなど)はいずれもそうあった。(『「パリの秘密」の社会史』p36-37) |
時代は下っても、ゾラやモーパッサンの作品の多くは新聞連載によるもので、十九世紀フランスの文学者にとって、新聞小説という形式は避けがたい制度となった。
ちなみに、日本の新聞小説は明治十九年(1886)からはじまり、明治二十年代に隆盛期を迎える。『法廷の美人』(1888)から始まる黒岩涙香の翻案が一斉を風靡し、そのなかにフランスの新聞小説、とくにガボリオーやデュ・ボアゴベなどの探偵小説を原作とするものが少なからぬ数を占めていた。「これは不思議といえば不思議な暗号だが、明治から大正に至る日本の大衆読者の嗜好が、ある部分においてはフランスと共通した地平をもっていたのだと考えられなくもない。」(長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』p76)小説の面白さが新聞の売り上げを左右する点や、「民衆への啓蒙」という意味合いにおいても、日仏の初期新聞小説は共通の要素をもっていたように思われる。
フランスの新聞小説は、20世紀になると衰退し、第二次世界大戦頃までは細々と生き延びていたらしいが、今は消滅しているという。現在、新聞小説が残っているのは、日本だけのようだ。
ところで、ヘイクラフトの『娯楽としての殺人』には、フィユトンについてこう述べられている。
この新聞小説(フィユトン)——この言葉は小冊子(リーフレット)という意味だが——とはフランス特有の名物であって、当時の新聞雑誌のいわば『文芸付録』のようなものである。最初はゴシップや批評、評論、パズル、笑話などのつめあわせだったが、やがて読者をひきつけるのに必死な編集者のよい道具になって、三文作家たちの白熱的な仕事場として黄表紙本の際もの小説シリーズとなっていった。 |
新聞そのものに掲載される小説ではなく、別冊付録だったのだろうか。松村喜雄の『怪盗対名探偵』でも、「フィユトンは新聞連載小説だが、本紙とは切り離した別刷で、いわば本紙と抱き合わせで買わなければならなかった。」とされている。しかし、『「パリの秘密」の社会史』の第一章「新聞小説の時代」を読むと、新聞本紙に掲載された連載読み物のように書かれているし、フィユトンに熱中する人々の風刺画を見ても、新聞を読んでいるように描かれている。いったいどちらが正解なのか、と悩んでいたら、山田登世子の『メディア都市パリ』には次のような記述を見つけた。
当時の新聞連載小説の形式は、現在のわたしたちが知っているようなそれとは較べものにならないほど自由だった。まず締め切りだが、これがまことにルーズをきわめていた。二、三回の「欠」など少しも珍しいことではない。そして枚数はと言えば、文字通りのドンブリ勘定である。メディアの市場で売買される文が一行いくらの計り売りであったことは先にふれたが、まさしく新聞小説は「行」払いであった。 (中略)連載小説にこうしたドンブリ勘定がゆるされたのは、それが掲載される学芸欄のスペースそのものがルーズにできていたからである。学芸欄は、一面下段に始まって、裏返した二面下段に続き、時には三面まで続いていくが、そのルーズなスペースが「適当に」埋まりさえすればよかった。ちなみにこうした連載小説の組み方は、読者が小説だけ切り取って冊子にできるようにとのサーヴィスである。(文庫版p142-144/以下同) |
初期には本紙に組み込まれていたが、ガボリオーの時代(1860年代)には別冊になっていたという可能性もあるが、とりあえず山田登世子の説明が正解としておこう。
「プレス」に連載された最初の新聞小説(ロマン・フィユトン)は、オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の『老嬢』だという。もちろん、バルザックをフィユトン作家とするわけにはいかない。しかし、彼のいくつかの代表作は新聞小説として書かれているし、また犯罪をテーマにした作品を多く書いていることで、探偵小説の生成にも一役かっている。
バルザックは若い頃、イギリスの恐怖小説やアメリカのフェニモア・クーパーに影響を受けてた作品を書いている。また、すでに触れたように、彼はヴィドックと親交があり、ヴィドックを思わせる登場人物が出てくる『ゴリオ爺さん』(1835)、『幻滅』、『浮かれ女盛衰記』(1847) なども発表した。当然ながら、これらの作品には犯罪が重要な位置を占める。「しかし、ここで注意すべきは、彼は犯罪者を主人公とする小説はかきながら、決して探偵を主人公とする小説をかいていないことである。」(『推理小説の歴史』)
そうしたバルザックの作品の中で、最も推理小説に近づいたのは、「モルグ街の殺人」の発表より三ヶ月前から連載が始まった『暗黒事件』(1841)だろう。「ちなみに同じ1841年1月には、ディケンズの長篇『バーナビイ・ラッジ』の連載も始まっており、(中略)ドーヴァー海峡を挟んだフランスとイギリスの違いはあれ、ともに歴史を素材とした長篇ミステリの原型が、全く同年同月にスタートしているのは奇妙な暗号といえよう。」(長谷部史親『ミステリの辺境を歩く』p200-201)
この作品は、革命で処刑されたかつての主人の遺児を助けようと、猟場番人のミシューが知恵をしぼる話で、最後の見せ場は法廷での駆け引きとなる。「バルザックの小説は、むろん純粋な推理小説とはいえない。(中略/しかし)推理小説にとって大切な考えかた、すなわち観察力が鋭く、普通の人には看過されやすい小さな手掛りを見破る人が偉いのだという考えを、人々に飢えつけたことは事実だった。」(『推理小説の歴史』)
さて、ロマン・フィユトンの中で、最初の記録的なヒットとなったのは、1842年から連載がはじまったウージェーヌ・シューの『パリの秘密』である。この物語は、「パリの下層民の暗黒の世界のピクチャレスクな描写と、その闇の世界にお忍びの身で出没する謎のプリンス、加えて迫害される可憐な乙女という筋立てで読者をうならせた」(『メディア都市パリ』p147)のである。さまざまな犯罪者たちとそれに対抗するヒーローを登場させていることから、犯罪小説の原型のひとつとして読むことも出来る。
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