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■ミステリの歴史■


7.1880年代の探偵小説

(4)イギリス——綺譚の時代


 イギリスではアメリカやロシアよりも遅れて、1880年代の前半にガボリオーが、後半にはデュ・ボアゴベが翻訳紹介される。やはり人気を博したらしく、1885年には『ルルージュ事件』の剽窃版とされるチャールズ・ギボン (1843-1890) の A Hard Knot が出るほどだった。ウィルキー・コリンズは1880年代にも作品を発表し続けていた。1878年に書いた中篇「奥様のお金」には、ガボリオーのタバレ爺さんをモデルにした人物が登場するというのは、以前に触れているが、この作品が収録された短篇集も1885年に出版されている。

 こうした「フランス探偵もの」の流行を、ロバート・ルイス・スティーヴンスンはロバート・オズボーンとの共著『箱ちがい』(1889)の中で皮肉っている、とジュリアン・シモンズは指摘する。

(『箱ちがい』では)一個の死体がさまざまな場所に出現するが、そのかぎりにおいてはあきらかに、当時流行したフランス作家によるばかばかしい探偵小説への皮肉なパロディであり、また作中人物のうちに作家がいて、『誰が時計の針を戻したか?』という本格物めいた題名の探偵小説を書いたりするが、それも所詮はファルス(笑劇)にすぎない。

 『箱ちがい』で、件の作中小説は police romance と呼ばれているから、フランス語で「探偵小説」を指す roman policier を想起させる。「フランス製探偵小説」と捉えればいいのかもしれない(注1)。チェーホフが『狩場の悲劇』「安全マッチ」で揶揄したようなことが、イギリスでも起こっていたのだろう。

 「スティーヴンスンは謎めいたロマンスに魅力を感じたが、犯罪捜査の科学性には関心がなかった。」(『ブラッディ・マーダー』)スティーヴンスンの謎めいたロマンスには、《クイーンの定員》にも選ばれた『自殺クラブ』『新アラビア夜話』)(1882)や、その続編の『ダイナマイト党員』 More New Arabian Nights: The Dynamiter (1885) などがある。これらは探偵小説ではないが、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ譚に通じる「都市の綺譚」とでもいうべき物語になっている。

スティヴンソンからの影響がいかに強いかは、シャーロック・ホームズ物語のみではなく、ドイルの作品全体に明らかに読みとれる。ドイルは歴史小説や冒険小説にあいて、当時スティヴンソンが得意としていた外気の中の男性的雰囲気を創造しようと、賢明に努力していた。(『天の猟犬』p193)

 こうした好奇心を刺激する謎めいたエピソードを元にした「都市の綺譚」は、ある種「探偵趣味」の物語ともいえるだろう。探偵小説の周辺ジャンルとして日本には紹介され、やがてそれは「広義の探偵小説」いわゆる「変格」として受容されていった。

 1887年に、「フランス製探偵小説」の影響を受けた作品が2冊、イギリスで出版された。1冊はオーストラリアの弁護士が書いたもので、1886年にメルボルンで自費出版され、翌年ロンドンで出版されるや、未曾有の売れ行きを示した作品。もう1作はサウスシーの開業医が書いたもので、同年の12月に《ビートン・クリスマス年鑑》として陽の目をみたものの、ほとんど評判にならなかった作品。しかし、歴史はスティーヴンスンの都市綺譚のような不思議なめぐり合わせを行なう。偶然にも同年の生まれであったこの弁護士と開業医は、その後のミステリの歴史の中で、大きく運命を変えていく。空前のヒット作は「今日ではほとんど読むにたえず」(『娯楽としての殺人』)といわれ、発表当時になんら評価されなかった作品は、ミステリの歴史の新しいページを開くことになる。前者がファーガス・ヒュームの『二輪馬車の秘密』であり、後者はもちろん、シャーロック・ホームズ物語の第1作、アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』のことである。


(注1) ちなみに「本格物めいた題名」はシモンズの原文では the excellent title となっている。 (本文に戻る)


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