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■ミステリの歴史■


7.1880年代の探偵小説

(6)イギリス——シャーロック・ホームズ登場す


 イギリスで1887年に出版された『二輪馬車の秘密』『緋色の研究』の二作の長篇探偵小説の作者、ファーガス・ヒュームとコナン・ドイルは同年の生れである。1859年5月22日にドイルが生まれ、1859年7月8日にヒュームが生まれている。一月半の違いだ。ちなみに死んだのも、ドイルが1930年7月7日、ヒュームは1932年7月13日とわりに近い。

 同時代を生きたこの二人の作家は、しかし、探偵小説の歴史の中で、異なる役割を演じることになる。

 ポオに発生した探偵小説は、1860年ごろ海を渡って、伝奇的分子、恋愛的機構と結びついて、有名なガボリオの長篇探偵小説の数々となって、美しい花を開いた。と同時に、英国ではドイルの手によって、近代的探偵小説の第一歩を完全に踏み出している。

 つまり、此処で探偵小説は二つの流れに分かれたわけである。一つはロマンスと伝奇とに、荒唐無稽なる東洋神秘主義を混えて、ガボリオよりボアゴベに伝えられ、一つは純粋科学に立脚して、遂にワ゛ンダインにまで伝えられた。

 ファーガス・ヒューム——彼は実にこの二者の中の前者の範疇に入れるべき作家であって、その作品は屡々(しばしば)ガボリオとボアゴベの息吹を感ずることが出来る。しかも、元来英国人の血を承け、英国に人となった彼は、遂に、ガボリオの如く絢爛、ボアゴベの如く奔放たる事を得なかった。其処に彼の探偵作家としてのウイークポイントがある。(博文館『ヒューム集』解説/扶桑社文庫解説より孫引き)

 こう書いたのは、ヒュームの『二輪馬車の秘密』を邦訳した横溝正史である。

 横溝正史の言う二つの流れとは、ひとつはセンセーショナルな要素を中心としたスリラー作品、ひとつは知的な要素を中心としたパズル型探偵小説、ということだろう。このような、明確な二つの流れがあるのかどうかは、あらためて吟味する必要があるものの、ドイルがひとつの起点に立っていることはたしかである。ドイルによって「近代的探偵小説の第一歩を完全に踏み出し」たのは間違いない。しかし、それは1891年から《ストランド》誌で連載がはじまるシャーロック・ホームズの短篇シリーズによってであり、ドイルの探偵小説第1作は、ヒュームと同じく、まだガボリオの影響下にある作品だった。コナン・ドイル自身がそう語っている。

構想の巧みに入りくんでいるという点でガボリオウは多少私を引きつけた。ポーのすぐれた探偵デュパンは、子供のころから敬慕する人物の一人だった。だが、私でもそういう人物を作れるだろうか?(『わが思い出と冒険』延原謙訳)

 ドイルが『緋色の研究』(1887)で書こうとしたのは、新しい人物像であり、新しい小説スタイルではなかった。小説スタイルは、ガボリオのものを踏襲しており、「純粋科学に立脚」した小説ではなく、多分に「ロマンスと伝奇」にもとずく物語であった。その証拠に、この作品はガボリオの探偵小説と同じように、第一部で探偵の活躍を描き、第二部で過去の因縁を物語る。しかもその第二部は、スティーヴンスンの『ダイナマイト党員』(1885) の一挿話からの借用であった。この小説が探偵小説の歴史に新しいページを付け加えたとしたら、それはシャーロック・ホームズという新しい探偵像だった、といってもよいだろう。ヒュームの『二輪馬車の秘密』に登場する探偵は、紳士階級の素人か足で調査する職業刑事である。それは、ガボリオやアンナ・カサリン・グリーンらの作り出した探偵像を一歩も出るものではなかった。むしろ、キャラクター造形としては、それらよりも後退しているといってもいい。しかし、ドイルの人物造形力は、比類ないものだった。

 『緋色の研究』を読んでもっとも印象に残るのは、シャーロック・ホームズというキャラクターである。外地からロンドンに戻ってきた退役軍医のワトソン博士が、一緒に住むことになった奇妙な男を疑問に思い、この男の正体を探ろうとする。第一章、第二章で探偵行為の標的となるのは、シャーロック・ホームズという人物である。非常に偏った知識をもち、謎めいた行動をとり、エキセントリックでありながらも、世間とあやういバランスを保っているこの怪しげな男が、この物語の最大のテーマなのだ。

 『天の猟犬』でイーアン・ウーズビーは、ホームズの性格を印象づけている以下の文章を引用している。

「私などからみると、ホームズという男はいささか科学的にすぎるんです——つまり、その、冷血動物とでもいいますか。たとえば新発見のアルカロイドを、友人に一幅もるなんてこともやりかねません。もちろん悪意からではなく、正確な効能を知りたいという駿粋な研究心からなんですが。いや、彼のためにつけ加えますが、きっと自分でも飲みかねませんね」

 ここには後の短篇シリーズには見られない、一種の学問的狂人、マッド・サイエンティストの面が強調されている。

 つづく『四つの署名』(1890)では、ホームズは最初から最後まで、麻薬(コカイン)に溺れている。事件調査は、コカイン中毒の合間にホームズが見た奇怪な夢のようですらある。この設定には、時代の空気と発表誌が関係していたようだ。この第二作長篇はアメリカの《リピンコット》誌に掲載されたが、同誌には同じ時期にオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』も載っている。

二つの長篇小説(『四つの署名』と『ドリアン・グレイの肖像』)は、耽美主義が確固として定着し、デカダンスが文壇で流行となりかかっていた時代に書かれた。だから、時代の科学的・合理主義的な傾向と同様に、このデカダンスの空気をも、実にはっきりと象徴されている。(『天の猟犬』p208)

 この時期のホームズは、あきらかに「怪しい人物」であった。探偵というよりは、むしろ探偵される側の人物、謎めいた人物だった。扱われる事件も、アメリカはユタ州のモルモン教にかかわる因縁であったり、インドの宝をめぐるものであったりと、冒険色、怪奇色が濃厚なものであった。ドイルが近代的探偵小説の幕をあけ、ホームズが大衆のヒーローとなるには、1891年からはじまる《ストランド》誌での連載をまたなくてはならない。


 『クイーンの定員』には、この時期の作品として、イーデン・フィルポッツの最初の著書 My Adventure in the Flying Scotsman (1888) が挙げられている。EQ誌の訳注解説に拠れば、「鉄道の宣伝用に書かれたものらしく」、「列車内で義兄弟の悪漢と被害者が争い、悪が滅びる話で、「推理的要素はないが面白い読物」となっている」とのこと。フィルポッツは1920年代になってからの作品が有名なため、黄金時代の作家と思われがちだが、長命だったこともあって実に長きにわたって活躍している。ホームズの短篇シリーズよりも早いこの作品からはじまり、なんと97歳になる1959年まで新作を発表しているのだ。


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