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■世界ミステリ史概説■

4.探偵小説の黄金時代(1918-1939)


 第一次世界大戦が終結した直後から第二次世界大戦が始まる1939年までの20年間は、一般に探偵小説の黄金時代と呼ばれている。ホームズ以来のロマンティックな探偵小説から、恋愛や冒険の要素を切り捨て、謎解きを中心に純粋化された文学形態が、「探偵小説」という確固たるジャンルとして形成されていく。意外性を生み出す叙述技術の先鋭化のために、作者と読者の間の共通認識が必要となり、それは「ゲームの規則」として明文化されて語られた。扇情的で装飾過剰な文章より、明晰で簡潔な文体が求められるようになった。これまで短篇が中心だった娯楽読物が長篇中心に移行するのは、読書習慣の変化も影響している。鉄道よりも自動車による旅行が多くなり、また都市には貸本図書館が整備されたため、読物雑誌よりも単行本に人気が集まった。

 黄金時代がいつ始まったのかについては諸説あるが、アガサ・クリスティ『スタイルズ荘の怪事件』フリーマン・ウィルス・クロフツ『樽』が発表された1920年を起点にするのが、年代の点からは最も分かりやすい。しかし、ホームズの時代と決別するモダンな作風が最初に現れたのは、大戦前に発表されたE・C・ベントリー『トレント最後の事件』(1913)においてであった。この作品を「タブーとされてきた恋愛を探偵小説にもちこんだ」とする評価は、すでに否定されている。ヴィクトリア朝から1910年代までの探偵小説では、恋愛がプロットの根幹をなすような作品はめずらしくない。この作品が新しいのは、名探偵は絶対的な存在ではないというプロットである。その意味では、従来の大衆小説的枠組でかかれた「ホームズの時代」の長篇探偵小説ばかりでなく、黄金時代パズル小説の先をいく要因も含んでいるといえよう。

 イギリスでは、探偵小説を書く有力な女性作家が出てくる。『スタイルズ荘の怪事件』(1920)でエルキュール・ポアロを登場させたアガサ・クリスティは、その後も『アクロイド殺し』(1926)、『オリエント急行の殺人』(1934)、『そして誰もいなくなった』(1939)など傑作、問題作を次々と発表し、1976年に亡くなるまで第一線の作家であり続けた。『誰の死体?』(1923)でピーター・ウィムゼイ卿を創造したドロシー・L・セイヤーズは、伝統的なイギリス小説の継承者としても評価され、多くの現代女性作家が目標としている。また、アンソロジーや評論でも活躍した。この二人に、『幽霊の死』(1936)をはじめとしたアルバート・キャンピオンもので知られるマージェリー・アリンガムと、『殺人鬼登場』(1935)などロデリック・アレン警部を探偵役に演劇界を舞台にした作品を書いたナイオ・マーシュを加えて、四大女性作家と呼ばれる。

 クリスティと同じ年にデビューしたF・W・クロフツは、処女作『樽』(1920)などアリバイ破りを得意とし、『フレンチ警部最大の事件』(1924)からはフレンチ警部を主役にして多くの作品を書いた。また『クロイドン発12時30分』(1934)などで倒叙探偵小説にも挑んでいる。H・C・ベイリー『フォーチュン氏を呼べ』(1920)など、1920年代はレジー・フォーチュンが主人公の短篇シリーズを書いていたが、30年代から長篇も上梓し、クリスティ、セイヤーズ、クロフツ、それに大戦前より活躍を続けるフリーマンと合わせて、黄金時代《ビッグ・ファイブ》と言われている。ゲスリン大佐の登場する『鑢』(1924)でデビューしたフィリップ・マクドナルドは、『レイトン・コートの謎』(1925)でロジャー・シェリンガムを創造したアントニー・バークリーとともに遊戯派の代表的作家である。バークリーは実験的な作品、探偵小説の新たな可能性を追求した作品も多く、多数の名探偵がさまざまな推理を繰り広げる『毒入りチョコレート事件』(1929)のほか、フランシス・アイルズ名義の『殺意』(1931)で殺人者の心理を描き、のちの犯罪小説へと繋がる手法を編み出した。ミッシンク・リンク・テーマの『プレード街の殺人』(1928)で知られるジョン・ロードは、1924年に処女作を発表して以来、別名義も含めて140冊の謎解き長篇を書いた。

 他の分野で名を成した人が探偵小説を書くのも、この頃から目立ってくる。童話作家として知られているA・A・ミルン『赤い館の秘密』(1922)を上梓、『ブルクリン家の惨事』(1923)のG・D・H・コールは経済学者として著名で、社会学者の妻マーガレットとともに『百万長者の死』(1925)をはじめ、多くの探偵小説を書いた。また『十二人の評決』(1940)で知られるレイモンド・ポストゲートは夫人の実弟である。『陸橋殺人事件』(1925)のロナルド・A・ノックスは聖職者であり、聖書の翻訳でも著名だった。こうした余技派の作風は、ユーモラスなものが多い。それ以前から活躍していた作家では、イーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』(1922)を、A・E・W・メースン『矢の家』(1924)を発表し、健在を示した。

 イギリスに比べ、アメリカではパズル的な探偵小説は、1920年代後半になるまで出てこない。S・S・ヴァン・ダインは名探偵ファイロ・ヴァンスが謎を解く『ベンスン殺人事件』(1926)を上梓し、のちにヘイクラフトをして「一夜にしてアメリカ探偵小説は成年に達した」と言わしめた。ヴァン・ダインは引き続き『僧正殺人事件』(1929)など力作を発表し、謎解き探偵小説のスタイルを極限にまで推し進めた。ヴァン・ダインの作り出したスタイルを継承したのが『ローマ帽子の謎』(1929)でデビューしたエラリイ・クイーンである。クイーンはいとこ同士の二人の合作名で、別名のバーナビイ・ロスを含め、読者との謎解き競技に徹した傑作を1930年代に発表する。『海のオベリスト』(1932)で登場したC・デイリー・キングも、読者との知恵比べに挑んだ。Q・パトリックは数人の作家の共同ペンネームだが、1931年からパズル性の強い長篇を発表し、パトリック・クェンティン名義で『俳優パズル』(1938)などを書いた。また、ジョン・ディクスン・カー『夜歩く』(1930)を最初に、カーター・ディクスン名義も使い、『三つの棺』(1935)など不可能的興味を中心とした作品を次々と上梓した。この派には『帽子から飛び出した死』(1938)で登場したクレイトン・ロースンがいる。

 これらパズル派とほぼ並行して、もうひとつのアメリカ的な探偵小説が作られていった。19世紀後半に人気のあった《ダイム・ノヴェル》は、20世紀になると急速に力を失い、かわって登場したのが《パルプ・マガジン》である。これは粗悪な紙(パルプ)に印刷された大衆読物雑誌で、さまざまな娯楽小説がジャンルごとに別の雑誌を構成していた。1920年に創刊された《ブラック・マスク》では、タフで非情な私立探偵の物語が掲載され、やがてそれは作品の文体や主人公の性格から「ハードボイルド派」と呼ばれる探偵小説の新たなジャンルを形作っていく。ダシール・ハメットは1923年から同誌に短篇を書き始め、『血の収穫』(1929)へと結実した。レイモンド・チャンドラーは1933年に《ブラック・マスク》誌に処女中篇を発表、『大いなる眠り』(1939)などに登場する私立探偵フィリップ・マーロウは不滅のヒーローとなった。この時期にはほかに、Murder whith Pictures (1935) などで活躍する報道写真家ケン・マードックジョージ・ハーマン・コックス『処刑6日前』(1935)などビル・クレイン・シリーズのジョナサン・ラティマー『死の配当』(1939)から登場するマイケル・シェーン・シリーズのブレット・ハリディらがいる。

 ハードボイルド私立探偵小説は明確に探偵小説の一分野であり、謎が解かれていく過程がプロットの中心的骨格をなしている。それとは別に、ハードボイルド文体で描かれた犯罪小説がある。ハメットと同時期の作家で、ハードボイルド文体の創始者としてあげられるのが『リトル・シーザー』(1929/映画「犯罪王リコ」の原作)のW・R・バーネットと、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934)のジェームズ・M・ケインである。《ブラック・マスク》誌の出身であるが独自の道を歩んだホレス・マッコイは、『彼らは廃馬を撃つ』(1935)で大恐慌時代の明日なき青春を冷徹な筆致で描いた。

 アメリカには、キャラクターの面白さを中心にした作品も多い。個々の作品の完成度より、キャラクターの作り出す作品世界の楽しさが、読者に安心感と喜びを与えるもので、『鍵のない家』(1925)で中国系の名探偵チャーリー・チャンを創造したアール・デア・ビガーズ、Meet the Tiger (1928)で怪盗セイントことサイモン・テンプラーを創造したレスリー・チャータリス『毒蛇』(1934)で蘭とビールを愛する巨漢探偵ネロ・ウルフを創造したレックス・スタウトなどがいる。『時計は三時に止まる』(1939)で飲んだくれの弁護士J・J・マローンを創造したクレイグ・ライスは《スクリューボール・ミステリーの女王》とも呼ばれている。E・S・ガードナーは1920年代前半から《ブラック・マスク》誌を初めとした多くの雑誌に短篇を書きまくっていたが、長篇『ビロードの爪』(1933)で弁護士ペリー・メイスンを作り出し、またA・A・フェア名義の『屠所の羊』(1939)からネロ・ウルフの女性版ともいえるバーサ・クールとドナルド・ラムのコンビも登場させた。やはりパルプ・ライター出身で『フランス鍵の秘密』(1940)で長篇デビューしたフランク・グルーバーも、数多くのキャラクターを作り出している。1933年に死去したビガーズを除き、彼らの多くは1960年代頃まで息長く娯楽読物の世界で活躍する。こうした男性作家の作品のほかに、女性作家による作品もある。フィービー・アトウッド・テイラーアゼイ・メイヨ・シリーズは『ケープコッドの惨劇』(1931)からはじまり、レスリー・フォード(別名デイヴィッド・フロム)は1930年代からプリムローズ大佐ピンカートン氏シリーズを書く。地方の町を舞台にしたユーモラスで軽快な作品は、やがてコージー・ミステリに受け継がれていく。

 イギリスで1920年代に確立した長篇探偵小説のスタイルは、アメリカで20年代後半から30年代にかけてさらに先鋭化されていった。探偵小説(=ミステリ)を他の文芸ジャンルから区別する諸特徴は、このとき最も収束したといえる。しかし、収束と同時に拡散もはじまる。江戸川乱歩はこれを「砂時計型」と評したが、こうした現象は探偵小説に限ったことではないだろう。アメリカでパズル的な作品が最も多く書かれたのは1930年代だが、この時期イギリスでは、探偵小説の様式へのさまざまな創意工夫が模索され、新たな展開を示しはじめている。C・H・B・キッチン『伯母の死』(1929)や、すでに述べたバークリーのアイルズ名義の作品もその現れであり、セイヤーズも人物描写に力を入れ始め、また1930年代に登場したマージェリー・アリンガムやナイオ・マーシュらはパズル的な探偵小説の枠組みに盛り込む内容を問題にする。桂冠詩人セシル・デイ・ルイスがニコラス・ブレイクの名前で『証拠の問題』(1935)を、英文学教授J・I・M・スチュワートがマイクル・イネスの別名で『学長の死』(1936)を書いてこのジャンルに参入してきたのもこの頃である。こうして英国ミステリは伝統的英文学の成果を取り込んでいく。

 19世紀末にデビューしたJ・S・フレッチャーは、『ミドル・テンプルの殺人』(1919)や『チャリング・クロス事件』(1923)などで、この時期に大衆的な人気を集める。普通人が事件の謎を追う彼の作品は、一般読者にとって現代的探偵小説の代表とされていた。オプンハイムは1920年代にも人気作家であり、エドガー・ウォーレスも1932年に急死するまで旺盛な筆力を見せる。サッパーことH・C・マクニールが『死を賭して』(1920)で登場させた快男児ブルドック・ドラモンドは映画化され人気を呼んだ。ジョン・クリーシーは1932年に処女長篇を上梓し、1938年から始まるトフ氏ものや、アントニー・モートン名義の『暗やみ男爵』(1937)などを、信じがたいペースで発表する。こうした通俗スリラーやスパイ小説も探偵小説が育ててきた技法を取り入れ、探偵小説と併走して発展していった。サマセット・モーム『アシェンデン』(1928)はリアルなスパイ小説に先陣をつけ、『暗い国境』(1936)で登場したエリック・アンブラーは『あるスパイへの墓碑銘』(1938)や『ディミトリオスの棺』(1939)など探偵小説的手法を活かしたスパイ小説の名作を上梓する。またリチャード・ハネーやドラモンドなどは、ラッフルズやルパンを祖先とした「愛国者の快男児」の流れともいえ、第二次世界大戦後のマイク・ハマージェームズ・ボンドへと受け継がれていった。『この男危険につき』(1936)で登場したピーター・チェイニイ『ミス・ブランデッシの蘭』(1939)で登場したジェイムズ・ハドリー・チェイスは、アメリカ英語で作品を発表し、フランスでも人気を博した。

 ラインハートはこの時期にも相変わらず高い人気を誇っていた。ラインハートと同じHIBK派のミニョン・G・エバハートThe Patient in Room 18 (1929)でデビューし、女性読者を中心に1980年代まで活躍する。イギリスでは、1931年に処女長篇を発表したダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』(1938)でゴシック・ロマンスを復活させた。ジョルジュ・シムノンは1931年だけで『男の首』など10作のメグレ警部ものを発表し、これはフランス語圏で最も重要な犯罪小説のシリーズとなった。フランスでは1927年から《マスク叢書》が始まり、クリスティの翻訳などを出していたが、1930年代になると『サンタクロース殺人事件』(1934)のピエール・ヴェリイ『六死人』(1931)のS・A・ステーマンら謎解き小説の書き手がこの叢書からデビューした。

 英米の探偵小説が純粋化していった1920年代は、日本の大衆文学の勃興期にあたる。中里介山『大菩薩峠』(1913-連載)を起点とした大衆文学は、「怪建築十二段返し」(1920)や『富士に立つ影』(1924-27連載)の白井喬二『蔦葛木曾桟』(1924-連載)の国枝史郎『剣難女難』(1924-25連載)や『鳴門秘帖』(1926-27連載)の吉川英治などが登場したこの時期に、欧米の翻訳小説を吸収しつつ発展していった。探偵小説もまた、例外ではない。

 イギリスでクリスティとクロフツがデビューし、アメリカで《ブラック・マスク》が創刊された1920年、日本でひとつの雑誌が産声をあげる。《新青年》というその雑誌は、誌名が示すように、もともとは地方青年への啓蒙雑誌だったが、初代編集長の森下雨村が読者獲得のため探偵小説を多く載せ、やがて専門誌の様相を呈し出す。第二次世界大戦前の日本の探偵小説界は、この雑誌を中心に生成発展していく。1921年に横溝正史が、1923年に短篇「二銭銅貨」江戸川乱歩が同誌にデビュー。また発行元の博文館は1921年から27年まで《探偵傑作叢書》を、1929年から30年まで《世界探偵小説全集》を刊行。とくに後者はポーからクリスティまでの代表的作家を体系的に紹介し、探偵小説の普及に貢献した。乱歩は「心理試験」(1925)で倒叙探偵小説の手法で犯罪者心理を描くなど、同時代の世界的水準からしても先駆的な作品をものし、また『蜘蛛男』(1930)など通俗スリラーで大衆的人気も得た。横溝正史は編集者として《新青年》にモダニズムを導入、海外作品の紹介でも活躍したのち、1932年から作家専業となり、「鬼火」(1935)、『真珠郎』(1937)などを発表する。甲賀三郎は1924年から理化学知識を活かした短篇を書きはじめ、『支倉事件』(1929)ではノンフィクション・ノベルに挑戦、後に『姿なき怪盗』(1932)など活劇調の長篇で活躍した。1925年にデビューした大下宇陀児「烙印」(1935)などリアリズムを導入した犯罪小説に健筆を誇った。『人生の阿呆』(1936)で直木賞を受賞した木々高太郎は、探偵小説に謎解きだけでなく文学的要因を求めた。また角田喜久雄『妖棋伝』(1935-36連載)、『髑髏銭』(1937-38連載)などで伝奇小説に探偵小説の手法を持ち込んだ。

 1920年代までの日本では、探偵小説とは概ね英仏の通俗スリラーのようなものを指していたが、20年代末から30年代になると英米黄金時代の成果が紹介されはじめ、ヴァン・ダインが模範的作家とされるようになる。貴族の家系に生れ、検事も勤めた浜尾四郎『殺人鬼』(1932)でヴァン・ダイン型の長篇小説を試み、蒼井雄『船富家の惨劇』(1936)でクロフツ流のアリバイ崩しに挑む。また大阪圭吉「とむらい機関車」(1934)や「三狂人」(1936)など論理的興味の短篇を書き、「坑鬼」(1937)では社会的テーマと謎解きを見事に融合させている。小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1935)でヴァン・ダインのスタイルを借りつつ、独自の世界を展開した。独自の世界といえば、「あやかしの鼓」(1926)でデビューした夢野久作が同年に発表した『ドクラ・マグラ』(1935)が最右翼で、他に類を見ない幻魔怪奇な作品であった。探偵小説のさまざまな要素を盛り込んだ奔放な長篇『魔都』(1937-38連載)を書いた久生十蘭は、『顎十郎捕物帳』(1939-連載)でトリッキーな謎解きを披露する。

 1939年にヴァン・ダインは死去し、ヒットラーがポーランドに侵攻する。岡本綺堂が鬼籍に入ったのもこの年である。1940年代になると日本も戦時体制にはいり、探偵小説はほとんど書かれなくなった。こうして探偵小説の黄金時代は幕を閉じた。


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