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■世界ミステリ史概説■

5.第二次世界大戦と戦後(1940-1949)


 1939年に始まった第二次世界大戦は1945年まで続いた。この時期、日本では探偵小説はまったくといっていいほど書かれなかったが、英米では多くのミステリ作品が発表されていた。しかし、戦争前と違って、名探偵が古い屋敷で連続殺人の謎を優雅に解くような作品は見られなくなっていく。二つの大戦の間に、すでに社会情勢は変わっていたのだが、多くの探偵小説はそれから眼をそらし、古き良き時代が未だに続いているかのような、一種の現実逃避ともいえる桃源郷に遊んでいた。だが平和は破られ、名探偵たちも現実を向き合わざるを得なくなった。

 すでに1930年代から、イギリスでは謎解き小説の新しい流れが現れていた。登場人物の性格描写は深みを増し、人形のような人物が作者に与えられた役割を果すだけの作品は少なくなる。しかし、黄金時代から続くプロット重視の作風が廃れたわけではない。『ハイヒールの死』(1941)で登場し、傑作『緑は危険』(1944)を上梓したクリスチアナ・ブランドや、『その死者の名は』(1940)で登場し、名作『猿来たりなば』(1942)を発表したエリザベス・フェラーズなど、1940年代にデビューした謎解き小説の書き手も、そうした流れを汲んでいる。『金蝿』(1944)が処女作のエドマンド・クリスピンは、『消えた玩具屋』(1946)など文学趣味が横溢したファルス的な作品を書き、マイクル・イネスの流れを継いだ。『薪小屋の秘密』(1942)のアントニー・ギルバート(女性作家だが)、『法の悲劇』(1942)のシリル・ヘアー、『フランチャイズ事件』(1948)や『時の娘』(1951)で注目されたジョセフィン・テイなど、1920年代、30年代から作品を発表している作家たちも、小説的技巧に磨きをかけ、この時期に代表作を発表する。テイの『時の娘』は名探偵が歴史上の謎を解く歴史ミステリとして名高いが、これはディクスン・カー『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』(1936)を嚆矢とし、リリアン・デ・ラ・トーレ『消えたエリザベス』(1945)などの先例がある。さらに歴史上の人物が名探偵となるデ・ラ・トーレのサム・ジョンスン博士シリーズもこの時期に始まっており(1946年に第一短篇集)、50年代のカーの長篇を経て、これはのちにひとつのジャンルを構成するほど発展していく。

 黄金時代をリードしていたバークリーやセイヤーズは、1940年代になると作品を発表しなくなり、クリスティは時代に合わせて作風を変化させていく。その流れはアメリカでもおこった。ヴァン・ダインは死去し、C・デイリー・キングは沈黙する。探偵エラリイ・クイーン『災厄の町』(1942)で住み慣れたニューヨークを離れ、長い模索の旅に出た。アメリカ型のパズル性重視の作風は、急激に姿を消した。かわって勢いを増したのがサスペンス派である。コーネル・ウールリッチは1930年代中頃から短篇を量産していたが、初の長篇『黒衣の花嫁』(1940)やウィリアム・アイリッシュ名義の『幻の女』(1942)など、意外性のあるプロットを甘く切ないサスペンスで描き、1940年代を代表する作家になった。シャーロット・アームストロング『疑われざる者』(1946)で、最初から犯人を明らかにして物語を進めていく。またマーガレット・ミラー『鉄の門』(1945)、ヘレン・ユースティス『水平線の男』(1946)、ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』(1948)、ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』(1950)など、異常者心理や精神分析を題材にした作品も多く、のちのサイコ・スリラーへと続く要因も持っていた。こうした流れは、探偵小説的プロットにさまざまな工夫を加えようとしたもので、黄金時代のミステリの改良の試みといえる。完成した器に盛り込む内容を工夫する者もいれば、器を新たな角度から見ようとする者もいる。犯人探しではなく被害者探しを行なうパトリシア・マガー『被害者を捜せ!』(1946)や、スラプスティック・コメディと謎解きを融合しようとしたアラン・グリーン『くたばれ健康法!』(1949)なども、そうした試みの例と見ることができる。

 ハメットによって完成されたハードボイルド・ミステリも、次なるステージを迎える。1940年代前半のハードボイルド派の中心人物はレイモンド・チャンドラーだろう。『さらば愛しき女よ』(1940)、『高い窓』(1942)などの代表作を発表し、また評論「簡単な殺人芸術」(1944)で黄金時代の探偵小説に決別を宣言した。しかし、ハードボイルドに新しい波が訪れるのは第二次大戦後である。ジョン・エヴァンス『血の栄光』(1946)などのポール・パイン・シリーズでチャンドラー・タイプの作品を書き、ウェイド・ミラー『罪ある傍観者』(1947)などのマックス・サースディ・シリーズを、トマス・B・デューイ『死はわがパートナー』(1947)からシカゴのマック・シリーズを発表した。フレドリック・ブラウンアム&エド・ハンターが登場する『シカゴ・ブルース』(1947)でMWA最優秀処女長篇賞を受賞。1944年にデビューしたケネス・ミラーは、ロス・マクドナルド名義の『動く標的』(1949)でリュー・アーチャーを創造し、これは戦後を代表するハードボイルドのシリーズへと発展する。また『裁くのは俺だ』(1947)で登場したミッキー・スピレインは、暴力とセックスを扇情的な文体で描き、マイク・ハマー・シリーズは驚異的なベストセラーとなった。一匹狼的主人公が自らの価値観で悪を処刑する物語は、やがてマック・ボランら1970年代のスーパーヒーローへと受け継がれていく。

 日本は第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた。しかし、敗戦の翌年には早くも《宝石》《ロック》などミステリの専門誌が創刊され、両誌には横溝正史『本陣殺人事件』(1946連載)、『蝶々殺人事件』(1946-47連載)が連載された。これは欧米黄金時代の作風を模したもので、横溝は引き続き『獄門島』(1947-48連載)など名探偵金田一耕助が登場する傑作とつぎつぎと発表。また、戦前は伝奇時代小説の第一人者だった角田喜久雄『高木家の惨劇』(1947)などの謎解き長篇を執筆、一般文壇から坂口安吾『不連続殺人事件』(1947)で参入し、日本の長篇本格ミステリの時代は幕をあけた。戦前の通俗スリラー嗜好から一転して、トリック中心の謎解きものが隆盛したものの、一部をのぞいて新人に長篇執筆の場が与えられることは少なかった。戦前の《新青年》にかわり、戦後は《宝石》がミステリ界をリードする。この雑誌から登場した新人たち、特に「戦後派五人男」といわれた高木彬光、山田風太郎、島田一男、香山滋、大坪砂男が精力的な活躍をはじめた。高木彬光『刺青殺人事件』(1948)以降、神津恭介を探偵役にした謎解き長篇を立て続けに発表、島田一男『古墳殺人事件』(1948)などヴァン・ダイン風の長篇を書いたが、「社会部記者」(1950)あたりから行動的な主人公が謎を解く作風に転換する。香山滋はエロティックで幻想的な作品を量産、精緻な短篇に技を磨いた大坪砂男、常軌を逸した発想の山田風太郎と、それぞれの才能を開花させた。イギリスで1920年代に、アメリカで1930年代に隆盛した探偵小説黄金時代の流れは、戦争による空白のために少し遅れて、1940年代後半に日本でも起ったのである。

 一方フランスでは、1930年代には《マスク叢書》に代表されるような謎解きものがミステリ・ファンの人気を集めていたが、ドイツ占領下になるとアメリカ的なものへの渇望から、「禁酒法時代のアメリカ」に大衆の興味が集まった。ハメット、ラウール・ホイットフィールド、W・R・バーネットなどの作品が翻訳され、1941年から始まった《深夜叢書》にはレオ・マレがフランク・ハーディングなるアメリカ作家として作品を書き始める。そして終戦直後の1945年に《セリ・ノワール》(暗黒叢書)が刊行を開始し、チャンドラー、ジャイムズ・M・ケイン、ホレス・マッコイらハードボイルド派の作家を次々とフランスに紹介した。特に人気があったのが、ピーター・チェイニイとジェイムズ・ハドリー・チェイスで、この二人がどちらもイギリス人でありながらアメリカ風ミステリを書いた作家であることは、フランスでの「ハードボイルド」の受容嗜好を伺うことができる。ボリス・ヴィアンがアメリカ作家ヴァーノン・サリヴァンとして『墓に唾をかけろ』(1947)などアメリカン・ノワールの贋作を書いたのもこの時期である。こうした流れが1950年代になってからフランス独自の「ハードボイルド」、いわゆる《ロマン・ノワール》を生むことになる。

 短篇探偵小説の時代にも多くの長篇が書かれたように、黄金時代に短篇探偵小説が書かれなかったわけではない。クリスティは短篇の名手としても知られ、幻想的な謎解きもの『謎のクィン氏』(1930)や、ミス・マープルが登場する『火曜クラブ』(1932)などの名短篇集がある。クイーンの短篇集『エラリー・クイーンの冒険』(1934)はパズル小説の醍醐味を味あわせてくれるし、T・S・ストリブリングポジオリ教授が登場する異色の短篇集『カリブ諸島の手がかり』(1929)を上梓したのも黄金時代であった。英国本格派ビッグ・ファイブのひとりH・C・ベイリーフォーチュン氏シリーズは12冊の短篇集があるし、トマス・バークの名作「オッタモール氏の手」(1929)もこの時期に発表されている。しかし、第一次世界大戦前と比べると、各作家が力を入れたのが長篇であるのは確かで、それは《ストランド・マガジン》のような雑誌が時代からとり残され、衰退していったのも理由の一つである。アメリカの《パルプ・マガジン》は1920年代から30年代に隆盛し、ハードボイルドやスリラー作品は次々と書かれていたが、歴史を越えて読み継がれるような作品は少なかった。

 1941年にそうした情況を一転させる出来事がおこる。《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》通称EQMMの創刊である。このミステリ専門誌は埋もれた名作の発掘、大家の書き下ろし、そして新人作家の養成によって、短篇ミステリの新しい局面を展開させることに成功した。EQMMの功績は数多いが、その最大のものは「ミステリ」を非常に幅広くとらえたことが挙げられよう。それにより、カーの「妖魔の森の家」(1947)など古典的名作短篇だけでなく、今までなかったタイプの作品が次々と現れた。「特別料理」(1948)でスタンリー・エリンがデビュー、英国で過去の作家となっていたロイ・ヴィカーズの《迷宮課》シリーズを復活させ、それは短篇集『迷宮課事件簿』(1947)に結実した。またウィリアム・フォークナーの短篇集『騎士の陥穽』(1949)の一篇はEQMMの短篇コンテストの応募作でもある。短篇ミステリは、新しい局面を迎えることになった。


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